平日の昼下がり、人が絶えることなくやって来ては、包みを手に店を後にする。子どもを連れた母親、作業着姿の男性、通い慣れた足取りのお年寄り。店の前にトラックが停まれば、忙しなく荷物の搬入も始まる。賑わう入り口から少し視線を上げると、円形の看板には「精肉」とある。その間で一際目を引くのは、黄色に赤で書かれた「善」の文字。

「真ん中の『善』がいいですよね。気に入っています」
そう言って愛おしそうに看板を見上げるのは、まるぜん精肉・三代目の梅田順一さん。東京でミュージシャンをしていた梅田さんは、九年前、四十歳で故郷の富山に戻り、家業を継ぐ決意をした。
「最初は戻るつもりなんて、全然なかったんです。お肉屋さんになるのが嫌で、富山を飛び出したくらいですから」
中学時代、憧れのドラマーに影響を受けて、友達とバンドを結成。高校卒業と同時に上京し、2000年にはシングルデビューも果たした。
両親はそんな彼の生き方に口出しすることはなく、むしろ周囲から「店を継いだほうがいい」と言われることの方が多かった。それでも、東京で生きる決意は揺るがなかった。
「売れない時代は、うどん屋でバイトをしていたこともありました。ドラマーとして色々な人とセッションしたり、バンドのバックで演奏したこともありましたが、音楽だけで食べていくのはやはり難しくて。本気でうどん屋になろうと、バイト先に修行を申し込んだこともあるんです」
そんな梅田さんの心に変化の兆しが訪れたのは、飲食店で雇われ店長として働いていたときのこと。
「経営ってこんなに大変なんだって、身をもって知りました。その時にふと、実家の店の光景が思い浮かんで。何十年も火を絶やさず続いていることが、どれほどすごいことか。家業の大切さに気づいた瞬間でした」
創業当時から変わらない
伝統の味「まるぜんコロッケ」
まるぜん精肉の創業は昭和二十五年。戦後の焼け野原から立ち上がり、生き延びるための商売として祖母が始めた「コロッケ屋」が原点だった。父の代には卸売業にも参入し、学校や病院、ホテルなどに精肉を届けるようになった。現在は惣菜にも力を入れ、店内には焼きそばやカレー、牛丼など、自家製のおかずが数多く並ぶ。そのように事業を広げても、創業当時から変わらないのがコロッケの味。注文を受けてから揚げるスタイルも昔のままだ。

「実は僕、この味のことを、東京で暮らしているうちにすっかり忘れてしまっていたんです。でも、昔よく行っていた楽器屋さんに『味、変わってないだろうな』と言われたときにハッとして。地域の人にとってまるぜんのコロッケがどんな存在なのか。思い出して一気に目が覚めました」
常連客の中には、微妙な違いに気づいて「今日は味が薄い」「甘い」と、そっと教えてくれる人もいる。ほんのわずかなことで味は左右されてしまう。対面販売だからこそ耳に届く、そうした声に接する度に、梅田さんは身を引き締める。

変わりゆくまちへの
小さなレジスタンス
地元を離れている間に、お店を取り巻く環境も大きく変わった。
「昔は魚屋さんや八百屋さん、呉服店、薬屋さん……本当にたくさんの個人商店がありました。小学生の頃、近くに大型ショッピングモールができることになったとき、ハチマキを巻いて反対の声を上げる父の姿は、今でも強烈に覚えています」
しかし、その建築計画は予定通り進み、人の流れはどんどん変わっていった。まるでエネルギーを吸い取られるように、総曲輪を中心とした昔ながらの商店街は委縮し、まるぜん精肉は数少ない生き残りとなった。
「時代の流れに逆らうのは難しい。僕にできるのは、お客さんと対話を続けながら、まちのお肉屋さんとしてコロッケの味を守りぬくこと。そして、市電で南富山を訪れるときの目的地のひとつになること。それだけです」
新しくSNSで発信を始めると、スマホ片手に特売情報をチェックしながら、お店を訪れる若いお客さんも増えた。まるぜんの味は、たくさんの思い出とともに暮らしに溶け込み、世代を超えて地域の食卓を支え続けている。

「うちのコロッケを食べて育った子どもたちが、いつかこのまちを離れても、ふとした瞬間にこの味を思い出して、久しぶりに地元に帰ってくる……そんなことが起きたら最高ですね。そうやってお店に来てくれる人のために、毎日、抜かりなくコロッケをつくり続ける。それがどれだけ誇らしく、カッコいいことなのか。すごく遠回りをしましたが、そのことに、ようやく気づけたような気がします」
どれだけ忙しくても、どれほど疲れていても、お客さんからの「美味しかった」の一言ですべてが吹き飛ぶ。けれど、梅田さんを支えているのはそれだけじゃない。疲れた日は好きな音楽を聴き、ドラムを叩き、仲間と語らう時間がある。子どもの頃からずっと寄り添ってきた音楽が、今もそばにあるからこそ、「さあ、明日も頑張ろう」と前を向くことができるのだ
文/白石沙桐